2009年度版 法話

日蓮宗では、祈祷師、所謂「呪い師」になるために、荒行に入って精神の鍛錬をしている等と宣伝していますけど、私の場合は、布教のため、精神と肉体を鍛えるために、修行の一環として今ボクシングをしています。で、「おやじファイト」という全国的な試合に40歳代で参加しているんですね。まあ、大リーグ・イチロー選手の偉業には遠く及びませんが、ボクシングの練習は相当ストイックなもので、ジムでの結構な練習だけでなくて、勿論仕事の泊まり先では走り込みもしています。もう、48才になりますけど、9分走ってから30秒のダッシュを12本、そしてまた9分走る、のキチガイ沙汰です。

で、この間の6月に長崎で試合があったのですけど。ちょうど、その試合の1ヶ月前に肩の神経を痛めてしまったんですね。上腕神経叢っていうのが、ここからここ(頸から肩を通して手先まで)に延びているんですけど、ちょっと無理な練習をして、丁度肩の付け根で神経を痛めて、接骨院の治療で更に悪化させて、もう車の助手席にも乗ってられないほどに激痛が走るようになってしまったんです。パイロットの仕事も10日ほど休みましたけど、もう後は、ペインクリニックのお医者さんに痛み止めの注射を打ちまくって貰って、何とか誤魔化していたんですね。もう、右手ではサンドバックも強くは打てない状態で、しかもパンチが顎に当たると、バーナー症候群と言って、肩にバーン!と電気が走るような状態です。何とか、試合までには痛みだけでも治ってくれと思いながらの1ヶ月、遂に、ぶっつけ本番となるその日を迎えてしまいました。

いやー、そりゃホント試練でしたね。何とか優性に凌げるかと思った1ラウンド終了間際、相手のパンチを食らった瞬間に、肩と腕にバーン!と激痛が走って使えなくなってしまったんですね。土屋信裕、もう最大の危機です! セコンドの会長は「どうんすんだ機長、腕が使えないなら棄権だぞ機長、どうすんだ!」って言うんですけど、ここまで来て、今更それはないでしょう。で、選択肢は三つです。棄権するか、このまま片手で続けてボコボコに負けるか、それとも片手で勝つか? もう、2ランドからは右腕は下がったまま、渾身の左フック、左フックのみです。で、勝ったんですね。奇蹟の判定勝利です。ジャッジもよく、有効打を見てくれたのが助かりました。

「闘い」っていうのは、怯んだら負けなんですね。どんなに正しいことでも、怯んだら負けなんです。「一生懸命やってきたのに、何でこんな目に遭うんだ〜。」なんて怯んでいたなら、もうサバーって天魔にさらわれちゃうんです。だからこそ、日蓮聖人は御遺文に「たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。」って励まして言われているんですね。宗教も闘いなんですよ。強く正しい生き方を貫く、我が人生における魔との闘いなんです。

では、一生懸命にやって、しかも怯まなかったら、世間一般でいう所の「勝利の栄光」が必ず手に入るのかと言えば、こりゃまた、そう言うわけでもないんですね。いや実は私、先週はボクシング・ライト級の九州王座決定戦、タイトルマッチが熊本であって、これでもかと思うほどに練習して来て、体調も万全に整えて、そして少しも怯むことなく闘いましたけど、残念ながらチャンピオンベルトは持って帰ることは叶いませんでした。相手は開催地熊本の選手で、アマで40戦程やってからプロにもなった方で、もう何ヶ月もテレビ局が追いかけている様な、もう試合全体がアウェイ、もう絶対にその選手に勝たせなければならないような雰囲気だったんですね。まあ、倒れ方も上手なんですけど、私が相手を何度倒しても、ダウンにはならない、スリップにされてしまうんです。

でもね、そんな話どころか、日蓮聖人などは誰にも負けない程に仏教を学んで、そして怯まずに信仰の正義を唱え続けたにも拘わらず、焼き討ちには遭うは、打ち首にはされそうにはなるは、島流しには遭うはで、大変な法難を受けること度々でしたね。では何が大事なのかと言えば、要は「覚悟」なんです。覚悟の「覚」も「悟」も「さとる」という意味ですね。覚悟を以て一生懸命に努力するならば、それは例え勝利の栄光とはならなくとも、そこに「嗚呼そうか、そうであったのか」と合点が行く、納得することの出来る大いなる智慧を得ることが必ず出来るからなんです。その智慧は必ず得なければならないものなんです。そして、それを未来に必ず活かすことが出来る。これが、法華経・日蓮聖人の言う所の「現世安穏、後生善処」なんですね。


で、私の好きな仏教のお話の一つ、涅槃経にお釈迦様の前世の修業を説いた「雪山童子」のお話があります。衆生の為に菩提心を発して、そしてヒマラヤで一生懸命に修行している雪山童子を見て、帝釈天が「此奴は、果たして本物かどうか。」を確かめるというお話ですね。そこで、帝釈天は恐ろしい鬼の姿に身を変えて天上から降り立つと、雪山童子の側で彼の有名な偈文の前半分「諸行無常、是生滅法」を唱えます。すると、雪山童子はこれを聞いて「嗚呼、これだ!」と思ったんですね。確かに、これは過去から仏が説いたものである。しかし、これは教えの前半分のみで、後ろの半分がない。鬼が何処で仏の教えを聞いたのかは知らないが、どうしても完全な教えが聞きたい。そこで、雪山童子が「どうか、後の大事な半分を聞かせて頂きたい。」と鬼に頼むと、鬼は「我は血肉を食らう者である。お前の身体を差し出すならば」と条件を出すんですね。雪山童子が臆することなく「衆生を利益する大事な教えの為ならば、どうぞ我が身を捧げましょう」と再び願うと、鬼は後の半偈を唱えます。「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と。

雪山童子は非常に悦んで感謝しました。そして、人々のためにと石壁や樹木にこの偈文を書き残して身を整えると、高い樹に上って「さぁ、約束通りに!」と躊躇無く、“ばーっ”と身を投げるんです。すると、彼の鬼は元の帝釈天の姿に戻って、雪山童子が地面に叩き付けられる寸前に、“さぁーっ”と助けるんですね。そして、帝釈天を初め、天の神々が雪山童子を礼拝し、誉め称えて言うんです。「素晴らしいことでございます。貴方こそ、真の菩薩であります。どうか無上の悟りを成就されて、そして一切衆生をお導き下さりますように。」と。皆さん、よ〜く、覚えていて下さいよ。不惜身命の覚悟がなければ、鬼は鬼のまんま、神には決して変わらないんです。

で、そうやって信心を強く保っている私は、何をしているかというと。有志の皆さんの御援助を得て、過去5年、カンボジアやインド、アンコールワットやブッダガヤで、現地の僧侶延べ4000名を動員して唱題行脚しながら、大行進しながら2万冊の現地語に翻訳した法華経を配布してくると共に、平成12年からは、ずっと創価学会・公明党と戦って来たんですね。平成12年は、ちょうど、自公連立政権が始まろうとしている時で、その時に自民党に「政教分離を考える会」っていうのがありまして、その白川代議士を通して、全国会議員700人以上に、この「しられざる創価学会の教義」を配って貰ったのです。全都議会議員には、今度創価学会・公明党の代表となる山口那津男、その山口那津男と選挙区で戦っていた、あのテレビによく出てくる平沢勝栄さん、知ってますよね? あの方に配って貰いました。日蓮聖人を習っての、私の所謂、平成の「立正安国論」奏進です。

で、国政選挙の度に街宣運動して来たんですね。東京や大阪では、歩いてでもやりましたけど、主に福岡では、愛車の赤いジープに、こんな大きなスピーカーと取り付けて、日蓮聖人と同じように辻説法です。私は、本来自民党支持者なんですけれども、創価学会に批判的だった代議士も、次から次へと皆創価学会に媚びを売るようになる事態に大変な危機感を持ったわけです。で、今年は7月16日「立正安国論」奏進750年の日に、麻生総理の地元・飯塚の商店街を皮切りに始めました。こんな感じですね。

「福岡の皆さん、こんにちは。仏教の教主が、お釈迦様であるのは世の中の常識です。お釈迦様が説かれた教えが、仏教でございます。これに反して、日蓮聖人の教えを歪曲して洗脳し、「釈迦も釈迦の教えも役に立たない」と教える、噸でもないカルト宗教が創価学会でございます。そして、その創価学会が、国を乗っ取る野望を以て組織したのが「公明党」でございます。日本国憲法第二十条には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」とあります。政権与党とは、政治権力を行使している政党です。その政権与党に創価学会・公明党は在るのです。創価学会と公明党は別モノであるなどいう屁理屈を鵜呑みにするような、非常識的な人間が一体何処にいると言うのでしょうか。

元公明党委員長で、現在は政治評論家の矢野絢也氏は、「創価学会と公明党は『日本占領計画』を着々と実行に移している。池田大作名誉会長による独裁国家の建設だ。私はマインドコントロールにかかって創価学会に操られていた。『池田創価学会』によって、日本の民主主義は、今や危機に瀕している。」と、最近出版した著書にもその真実を暴露しています。その創価学会に票をチラつかされ、学会票という麻薬に冒されて常識を失い、カルトの創価学会・公明党と組んでこの国を危うくしてきたのが自民党ではないでしょうか。その結果、今や政治や行政のみならず、マスコミも大広告主である創価学会に胡麻を擂っている有様です。日本国の平和と発展を本当に祈るならば、自民党はカルト宗教と手を結んだことを猛省し、そして新たに出直すべき時であるのです。それが、本来の自民党の復活となるはずです。国民は、自公連立政権にNOを突きつけています。噸でもない宗教と手を組んで、迷走している自民党にNOを突きつけているのです。それが都議会選挙の結果ではないでしょうか。政権維持のためにカルト宗教、創価学会と手を組んだ自民党、日本の未来に理念なき今の自民党には政権を担う資格はありません。」って。

もうそりゃ〜色々出てきますよ〜。「馬鹿野郎、いい加減なこと言うな!」って怒鳴り付けて、モノを投げ付けようとする奴も居ますし、車の前に立ちはだかってゴリラのように「やるか、この野郎」と威嚇してくる馬鹿も居ます。ずうっと付け回して来る学会員のおばさんの車もあります。で、創価学会に通報されて、のこのこ出て来た警察官には言ってやるんですね。「ピピピー、ちょっとこっちへ!」「何だ、お巡りさん。演説は聞いていただろ。創価学会に味方して、お釈迦様の敵になろうってのか?」って。そしたらですよ、「いえいえ、とんでもありません。職務上、通報があったまでのことですから、どうぞ渋滞に気を付けてお続け下さい。」って。もう、二度と警官は出てきませんね。

そして遂に、カルト宗教・創価学会と組んだ自民党は、天罰下って公明党共々散々に負けて政権から下野しましたね。お前の街宣運動と、自公政権の敗北は関係ないだろって言う人が居るかも知れませんけど、街宣が意味のないことだったなら、候補者が一生懸命やっている街頭演説も意味のないことになってしまいます。そして、何よりも大事なことは、人が見ているからじゃないんです。効果が目に見えるかどうかじゃないんです。損だとか得だとかじゃないんです。信仰として大事なことは、お釈迦様が見て居られるか、日蓮聖人が見て居られるか、仏教守護の神々が見て居られるかということなんです。

日蓮聖人は、弟子達には何度も「天の加護なき事を疑わざれ。現世の安穏ならざることを嘆かざれ。と述べたにも拘わらず」、と開目抄に書かれています。確かに、私は人並み以上にチャレンジ精神が有りますから、それだけに多くの試練を自らに敢えて招いているのかも知れません。しかしながら、それはけっして災いではないんですね。ですから、その試練以上にですよ、有り難い諸天善神の御加護を得て、そしてお釈迦様の有り難いお導きを受けていることを、私は本当に常々実感して感激することが出来るんです。信仰というものは、怯んじゃ駄目なんですね。勇気を奮い起こして臨まなければ駄目なんです。そこで初めて、諸天善神の御加護もあり、仏様も褒めて下さっていることが分かるんです。それに気付いて、嗚呼、何と素晴らしい人生なんだとの想いを得ようとするならば、是非とも、皆さんも、もう一歩、あと一歩、前に前に信仰に突き進んで頂けたらと思います。

ああ、そうそう。で、ボクシングの試合の時、神様でなくて、ウチのカミさんが大声で叫んでいましたよ。「土屋〜! 下がるな〜!」って。で、結局応援の褒美を私から貰ったのは、ウチのカミさんだったんですけどね(笑)。まぁ、今日の所はこの辺で。

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